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2026年4月18日に京都・タカ・イシイギャラリー京都、4月25日に東京・九段ハウス。一週間あけて、同じアーティストの個展を二つの都市で見てきました。

率直に言って、難解でした。それも生半可な「難解さ」ではなく、見終わったあとも数日間、頭の中に残り続けるタイプの難解さです。京都の白い空間に佇む彫刻を前にしても、東京の九段ハウスを覆い尽くす不穏なビニールシートの中を歩いていても、「これは一体何を見せられているのか」という問いが消えませんでした。

しかも不思議なことに、京都と東京は同じマルタン・マルジェラの個展でありながら、まるで別の作家による展示のように見えたのです。京都は静かで、白くて、空間そのものを呼吸させていた。一方の東京は、邸宅の主要な部分すらビニールで覆い隠し、ダークで重く、こちらに有無を言わさない圧があった。

東京の九段ハウス展は、週末チケットがかなり前から完売するほどの人気でした。会場は人で溢れていて、皆が真剣に作品と向き合っていた。けれど、ふと思ったのです。あの会場にいた何人が、マルジェラの仕掛けた「問い」をどこまで読み取れたのだろうかと。そもそも私たちは「理解しよう」とすべきなのだろうか。

この記事では、二つの個展のレポートと並行して、最初と最後に少し長めの考察を置きました。マルジェラがファッション界を退いてから17年。アーティストとしての彼が日本で初めて開いた大規模個展に込めたものを、訪問者の目線で読み解いていきます。

そもそもマルタン・マルジェラとは?ファッションを「降りた」デザイナーの現在地

展示のレポートに入る前に、マルタン・マルジェラというアーティストについて少しだけ整理しておきます。彼を知らずに展示を見ると、ほぼ何も受け取れないと思うからです。

1988年Maison Martin Margiela創設から2008年の引退まで

マルタン・マルジェラは1957年、ベルギーのルーヴェン生まれ。アントワープ王立芸術学院を1980年に卒業し、ジャン=ポール・ゴルチエのアシスタントを経て、1988年にパリで「Maison Martin Margiela」を設立しました。

ブランドのコンセプトは、当時のファッション業界に対する強烈な異議申し立てでした。デザイナーの顔を出さない「匿名性」、古着を解体して再構築する「リコンストラクション」、見せるはずのない縫い代や仮縫いを表に出す「未完成の美学」。1997年から2003年にはエルメスのウィメンズ クリエイティブ・ディレクターも兼任し、その後2008年、ブランド20周年ショーを最後にファッション界を電撃引退します。

引退後、彼は一切メディアに姿を見せず、アーティストとしての活動に専念してきました。

2009年以降、アーティストとしての15年

転機となったのは、2021年にパリのラファイエット・アンティシパシオンで開催された初の個展でした。20点以上のインスタレーション、彫刻、コラージュ、ペインティング、映像作品が公開され、ファッション界の伝説が「アーティスト」として再デビューを果たしたのです。

その後、北京のMWoods、ソウルのロッテ美術館、アントワープ、ブリュッセル、アテネと各地を巡回しながら、マルジェラの「現代美術家としての顔」は静かに、しかし確実に世界に浸透していきました。そして2026年春、満を持して日本での大規模個展開催に至ります。

東京の九段ハウスと京都のタカ・イシイギャラリー京都での同時開催。両方とも、作家にとって日本で初めての展覧会です。

マルジェラ作品を貫く三つのキーワード「身体・痕跡・匿名性」

公式サイトに掲載されたマルジェラ自身の言葉を引いておきます。

「匿名性は、私の創造の自由にとって不可欠なプライバシーを守るために必要なものです。ファッションの時代と同じ興味や強迫観念を、私は今も持ち続けていますが、人間の身体はもはや唯一の表現媒体ではありません」

「私は答えを示すよりも、問いを投げかけたいのです」

このふたつのフレーズが、二つの個展を読み解くための鍵になります。

京都・タカ・イシイギャラリー京都|白い空間が浮かび上がらせる「身体の輪郭」

それでは、訪問した順に京都展からレポートします。

タカ・イシイギャラリー京都の基本情報とアクセス

項目内容
会場タカ・イシイギャラリー京都
住所京都市下京区矢田町123
会期2026年4月17日(金)〜5月16日(土)
開廊時間10:00〜17:30
休廊日日、月、火、水、祝
料金無料(予約制)
出展点数約14点(2018〜2025年制作の近作)

タカ・イシイギャラリー京都は、五条通エリアにある町家を改装したギャラリー。木造の梁と白く塗られた壁が共存する、京都らしい静謐な空間です。

予約制ですが料金は無料。事前に公式サイトのフォームから予約して訪問しました。

白で統一された空間:ギャラリーをそのまま生かすという選択

ギャラリーに足を踏み入れた瞬間、まず印象に残ったのは「白」でした。

壁も天井も床も、ほとんどが白で構成されています。京都の町家らしい木の梁や柱、窓から差し込む自然光、そういった既存の空間要素は、ほぼそのままの状態で残されている。マルジェラは、京都ではギャラリー空間に手を加えていません。むしろ「空間に作品を置く」という、ある意味で正攻法の展示形式を選んでいます。

東京・九段ハウスの全面ビニール被覆を見たあとに振り返ると、この「素のまま」の選択がいかに意図的であったかが理解できます。京都は引き算の展示。空間と作品の間に、たっぷりとした余白がある。

《Tops & Bottoms》ルーヴルの裸像を「下着」で切り出す

会場で特に存在感を放っていたのが、彫刻シリーズ《Tops & Bottoms》です。

これはルーヴル美術館に収蔵されている古典的な大理石彫刻に基づいた作品で、規範的な裸像が「現代の下着の形状」で切り出されています。つまり、本来は身体を覆い隠すための下着の輪郭が、逆に身体を切り取るマスクとして機能している。下着の本来の機能を反転させ、その内部にあるべき身体を露見させているのです。

近づいてみると、表面はカーペットやシリコンといった素材で覆われており、独特のテクスチャーを帯びていました。視覚だけでなく、触覚的にも訴えてくるような質感です。

古典彫刻の威厳、下着の親密さ、フェイクな素材の違和感。三つのレイヤーが重なり合った瞬間に、見ているこちらの身体感覚がぐらりと揺れる。そんな体験でした。

《Barrier Sculpture》フェイクファーで覆われた都市のバリケード

もう一つ印象的だったのが《Barrier Sculpture》。

街中で見かける工事現場の保護バリケードや、人の動線を制限する柵。あの形状そのままに、ただし表面が真っ白なフェイクファーで覆われている、というオブジェです。

機能的な硬さと、ファーの柔らかさ。守ることと隠すこと。秩序と動物性。相反するイメージが一つのオブジェに同居していて、見ているうちに「これは一体、何を遮断しようとしているのだろう」という問いが浮かんできます。

これも公式の解説を読んで初めて意味の輪郭がぼんやり掴める作品でした。マルジェラは日常的な物体への鋭い観察眼で知られており、ありふれたものを少し変形させることで、その対象を「異様なもの」に変えてしまう。シュルレアリスムやポップアートの系譜に連なる手法ですが、彼の場合、そこに常に「身体」と「触覚」が絡んでくるのが特徴です。

《Black Nail Polish》《Kit 》──存在しない完成形が浮かぶ

入口近くの石のテーブルには、《Black Nail Polish》という小さな作品が置かれていました。爪のような形をした、ニンフェンブルク磁器製の焼成用具5点で構成された作品です。

ただし不思議なのは、焼成から生み出されるはずの「完成品」が、ここには存在しないこと。あくまで「焼くための道具」だけが提示されている。

同様に、組み立て前のプラモデルを思わせる《Kit (Black)》という作品もありました。パーツがそこに揃っているのに、組み立てられていない。完成形は鑑賞者の頭の中で「投影」されるしかない。

これらの作品が突きつけてくるのは、「不在」「未完成」「秘匿」というテーマです。マルジェラは、見えないものや差し控えられたものを通じて、私たちに「想像で補わせる」ことを促してきます。

京都展のコンセプト:顕在化と秘匿の狭間にある身体

京都展全体を貫いているのは、「顕在化と秘匿」「露見と保護」という対立軸です。

下着で切り出された裸像。ファーで覆われたバリケード。完成形が不在の道具。どの作品も、何かを「見せる」と同時に「隠している」。

正直、現地で作品を見ているだけでは、コンセプトの全体像はつかめませんでした。白い空間に静かに佇む彫刻群は、それぞれが独立した小宇宙のようで、共通する文脈を読み取るには相応の予備知識が必要です。「美しいけれど、わからない」。これが京都での率直な感想でした。

ただ、その「わからなさ」が不快ではないのです。京都の白い空間は、わからないまま佇んでいることを許してくれる懐の深さがありました。

東京・九段ハウス|1927年の邸宅をビニールで覆う、ダークで重い「未完の現場」

そして一週間後の4月25日、東京・九段ハウスへ向かいました。京都の余韻を引きずったまま訪れた東京の展示は、しかし、まったく別の世界でした。

九段ハウスとは?1927年竣工、内藤多仲設計の登録有形文化財

九段ハウス(旧山口萬吉邸)は、1927年(昭和2年)に竣工したスパニッシュ様式の洋館です。鉄筋コンクリート造、地下1階・地上3階。

設計は、後に「耐震構造の父」と呼ばれる内藤多仲をはじめ、木子七郎、今井兼次という日本を代表する3人の建築家が手がけました。1923年の関東大震災を経験した施主の山口萬吉が、内藤の壁式鉄筋コンクリート造に感銘を受けて採用したと伝えられています。1945年の東京大空襲でも周辺の木造建物が焼失する中、九段ハウスは奇跡的に焼け残り、ほぼ建築当時の姿を保ったまま今日まで残ってきました。

2018年に国の登録有形文化財に認定され、現在は会員制ビジネスイノベーション拠点として活用されています。

つまり九段ハウスは、ただの「綺麗な洋館」ではありません。約100年にわたって人が住み、働き、出入りしてきた「生きた邸宅」なのです。

エントランスからすでに違和感。床も窓もビニールカバーで覆われた空間

入場してすぐ、違和感が訪れました。

廊下の床、階段、壁、そして窓。九段ハウスの「主役級」とも言える美しい木製建具や格子窓まで、薄いビニールシートで覆われていたのです。まるで、内装工事の養生がそのまま展示物になっているような状態。

これは事故ではなく、マルジェラ本人によるキュレーションです。展覧会全体を「ワーク・イン・プログレス(制作途中)」の状態に見せることで、従来の展覧会の定義そのものを問い直す。来場者の期待を、良い意味で裏切る。そんな意図が込められていると公式の解説には書かれていました。

ただ、この説明を後から読んでもなお、現地で受けた衝撃は別格でした。歴史的価値のある邸宅を、こんなにも遠慮なく覆い尽くしてしまう。これは敬意なのか、挑発なのか、それとも建物そのものを「素材」として扱う冷徹さなのか。判断に迷う光景でした。

38点の作品が点在する「邸宅全体がインスタレーション」

九段ハウスの展示は、約38点の作品が邸宅の各部屋に点在する形式です。2011年から2025年にかけて制作された作品が、玄関、応接間、書斎、寝室、地下、屋上に至るまで、ほぼすべての空間に配置されています。

来場者は順路に従って邸宅を巡り、部屋から部屋へ移動するごとに別の作品と対面することになります。広間で大規模なインスタレーションを見たあと、急に小部屋に入って、ガラスケースに収められた小さなオブジェと向き合う。建築のリズムと、作品のリズムが交差する。

これが、京都との最大の違いでした。京都は「ホワイトキューブで作品を見せる」展示。東京は「邸宅そのものが体験装置になる」展示。観客の身体は、作品を見るための装置として、邸宅の中を移動させられるのです。

《Vanitas》黒髪から白髪へ、4つの球体が時間を可視化する

東京展で最も話題を呼んでいた作品の一つが《Vanitas》です。

人の髪の毛が植え付けられた球体が4つ並んでおり、左から右へ、黒髪から白髪へとグラデーションになっている。加齢、時間の流れ、生命の有限性。バニタス(ラテン語で「空虚」「儚さ」の意)というタイトルが示す通り、これは現代版の「メメント・モリ」と読めます。

同じ会場には、ガラスケースに収められた赤い毛髪で覆われた頭部のオブジェもあり、別の部屋には5色の異なる毛髪で覆われた頭部が整然と並んでいました。これらは「人生の5つのステージによる髪色」を並べたものとされています。

なぜ、こんなにも髪なのか。

調べてみると、マルジェラの父親は理髪店を営んでいたそうです。幼少期から、切り落とされた髪の毛が日常の風景の中にあった。床に散らばる髪の束、ハサミから落ちる髪の毛。それは身体の一部でありながら、身体から切り離された「痕跡」でもある。マルジェラの作品における「髪」は、彼の創作の根源にある原風景なのです。

5色の毛髪で覆われた頭部のオブジェ──父親の理髪店という原風景

このことを知ってから改めて作品を見返すと、九段ハウスの空間に点在していた「髪」のオブジェ群が、急に意味を持って迫ってきます。

身体は不在。けれど、身体の最も親密な痕跡である髪は、ガラスケースに陳列されている。これは「人間の標本」のようでもあり、「形見」のようでもあり、「未完成の彫像」のようでもある。

九段ハウスというかつての邸宅、つまり誰かが生活していた場所に、こうした「身体の痕跡」が散りばめられているという構造は、やはり計算され尽くしたものだと感じました。

《Shore Shoes》《Torso》《Greysteps》──断片化される身体

公式の主要作品リストには、《Shore Shoes》《Vanitas》《Torso》《Greysteps》などの名前が挙がっています。

トルソ(胴体)、靴、足跡。どれも「身体の一部」あるいは「身体が触れた何か」を扱った作品群です。マルジェラの作品では、身体が一つの完全な姿として登場することはほとんどありません。常に断片化され、覆い隠され、輪郭だけが提示される。

そしてこの「断片化」「不完全性」という特徴は、両会場に共通するテーマでもありました。

東京の映像作品──気持ち悪い笑い声と、見えそうで見えない顔

東京展で最も強烈な印象を残したのは、邸宅のある一室で上映されていた映像作品でした。

これがもう、本当に気持ち悪かったのです。

映像はCM風の構成。画面に映るのは女性のクローズアップ。けれど、彼女の顔ははっきり見えません。なぜなら、長い髪が顔の上にかぶさっていて、目も口も鼻も覆い隠されているから。彼女は何度も笑います。けれどその笑い声が、ただただ不穏なのです。明るい笑い声のはずが、画面の質感とどこかズレている。

そして、何カットものテイクが繰り返されます。同じような構図、似たような所作、けれど微妙に違う表情。顔が見えそうになる瞬間がある。けれど、絶対に見えない。髪がそれを許さない。

一定時間ごとに「CM」のような映像が挟まり、それはスキップされる。でもスキップという行為自体が編集として組み込まれているような構成で、こちらが「これは何の物語なのだろう」と推測しようとする手がかりを次々に奪っていきます。

正直、長時間見ていられないほど居心地が悪かった。けれど、この居心地の悪さこそが、マルジェラが意図して作り上げたものなのでしょう。「顔を見せない」「物語を完結させない」「視聴者に意味を与えない」。映像メディアという、本来は「答えを与える」ことを得意とするフォーマットを、徹底的に裏返している。

「ダークで重い」と感じるのはなぜか

東京展全体を覆っていた印象は、「ダークで重い」というものでした。

ビニールに覆われた邸宅という視覚的な重さ。髪の毛のオブジェが醸し出す身体の不在感。映像作品の不穏さ。これらが積み重なって、来場者は「何か理解できない、けれど確かに迫ってくる」感覚に包まれます。

そして、京都展との大きな違いは、ここに「人間不在の美学」が冷徹に貫かれていることでした。京都の作品にも身体は登場しますが、白い空間の中ではどこか抽象化されて、観念的な存在として処理されている。一方の東京は、「ここに住んでいた人々の痕跡」と「マルジェラの提示する身体の痕跡」が二重写しになって、もっと生々しく襲ってくる。

亡霊たちの邸宅。そんな言葉が頭に浮かびました。

京都と東京、二つの個展はなぜこんなに違うのか

ここで一度、二つの個展を整理して比較してみます。

比較項目京都・タカ・イシイギャラリー東京・九段ハウス
会場の性格町家を改装したギャラリー1927年竣工の邸宅
空間処理既存の空間をそのまま生かす床・壁・窓をビニールで全面被覆
出展点数約14点約38点
主な色調白基調、自然光暗め、ビニール越しの濁った光
印象静謐、引き算、余白重厚、過剰、被覆
入場料無料・予約制2,500円・日時指定制
作品の代表例Tops & Bottoms、Barrier SculptureVanitas、毛髪のオブジェ、映像作品

京都はホワイトキューブ的な見せ方、東京は劇場的・体験装置的な見せ方。同じアーティストが、同じ時期に、まったく異なるアプローチで作品を提示している。これは偶然ではなく、明らかにマルジェラ自身の意図によるものです。

京都の「白の余白」は、作品一つひとつをじっくり見つめさせるための装置でした。一方、東京の「黒のビニール」は、邸宅全体に観客を浸らせるための装置です。

両方を見て初めて、マルジェラの「身体への探求」がどれほど多面的なものかが少しだけ見えてくる。逆に言えば、片方だけしか見ていないと、マルジェラのアートを誤解する可能性がある。そういう意味でも、東京と京都の同時開催は、企画として非常に挑発的だと感じました。

考察|九段ハウスの「ビニール」は何を覆い隠すのか

ここからは、最後の考察パートです。

二つの個展を見終わってからずっと考えているのは、九段ハウスのビニールシートが何を意味していたのか、という問題です。

「ワーク・イン・プログレス」というコンセプト──完成を拒む姿勢

公式の解説によれば、ビニールカバーは「展覧会そのものを制作途中に見せる」ためのもの。マルジェラは「未完成の美」を信条としてきたアーティストです。彼自身の言葉を借りれば、「不完全さやパティナ、未完成の美に対する深い愛情」が彼の創作を貫いている。

ファッション時代から、マルジェラはタグの白い縫い目を見せ、仮縫いの状態を商品にし、古着を解体して再構築してきました。「完成」を拒むこと、それ自体が彼の作品の本質なのです。

九段ハウスのビニールも、その延長線上にあると読むのが、最も素直な解釈でしょう。「展示はまだ完成していない、これから何かが起こるかもしれない」という時間的なゆらぎを、空間そのものに与える。

これは社会への風刺なのか?「私的な空気感」というキーワードから読む

ただ、もう一歩踏み込んで考えてみたくなります。

「ワーク・イン・プログレス」という言葉だけでは説明しきれない、もっと不気味な何かが、あの九段ハウスのビニールにはありました。

ヒントになるのが、公式が繰り返し使っている「私的な空気感」というキーワードです。マルジェラは、生活の痕跡が残る古い邸宅に作品を設えることを選びました。これは、彼にとって大切な「プライバシー」「親密さ」を反映する選択だと説明されています。

ところが実際には、その「私的な空間」は、ビニールで覆い尽くされている。本来なら触れられるべき木製建具や畳や壁紙が、観客との間に薄い透明な膜を挟んで隔てられている。「親密さ」を演出すると言いながら、その親密さに触れることは決して許されない。

これは、現代社会への鋭い風刺としても読めるのではないか。SNS時代の私たちは、他人の「プライベート」を画面越しに大量に消費しています。誰かのリビング、誰かの食卓、誰かの寝室。本人とは触れ合うことなく、薄い液晶画面というビニールを挟んで、私たちは他人の生活を覗き見ている。

マルジェラのビニールは、その構造を物理的に再現しているように見えました。「あなたたちは、本当の意味で『私的なもの』に触れることはできない」という冷たい宣言として。

もちろんこれは私の解釈に過ぎません。マルジェラ自身は、こうした「意味の固定化」を嫌うアーティストです。

匿名性へのこだわりと、ファッション時代から一貫する「問いを投げる」姿勢

マルジェラを語る上で外せないキーワードが「匿名性」です。

彼はファッションデザイナーとして活動していた時代から、徹底して自分の顔を出しませんでした。インタビューを受けず、写真撮影を拒み、ブランドのタグからもデザイナー名を消そうとしました。「ブランドの個性ではなく、服そのものを見てほしい」という思想です。

これは、現代の「インフルエンサー文化」「セレブデザイナー文化」の真逆を行く姿勢でした。そして引退から17年経った今もなお、マルジェラはメディアの前に姿を見せていません。

東京の映像作品で、女性の顔が髪で覆われ続けていたことを思い出します。あれもまた、「顔を見せない」というマルジェラの一貫したスタンスの表明だったのではないか。マルジェラは、自分のサインの代わりに、髪に覆われた顔を提示している。

観客は「理解」する必要があるのか?マルジェラ自身が答える

そして、ここで彼自身の言葉に戻ります。

「私は答えを示すよりも、問いを投げかけたいのです」

この一文が、すべてを言い尽くしているように思います。

マルジェラの作品は、理解されるために作られていない。観客の中に「何だろう?」という問いを発生させること。それがゴールなのです。だから、現地で「わからない」と感じたとしても、それは間違いではない。むしろそれこそが、作品が機能した証拠だとも言える。

私自身、京都でも東京でも、最後まで「これは何だろう」という問いを抱えたまま会場を出ました。けれどその「わからなさ」が、二週間経った今でも頭の中に残り続けている。これがマルジェラの仕掛けなのだとしたら、私は見事に彼の意図に絡め取られているわけです。

週末チケットがsold outだった東京。みんなどこまで「読めた」のだろうか

東京の九段ハウス展は、週末のチケットがかなり前から完売するほどの人気でした。会場は終始多くの観客で賑わっており、皆が真剣な眼差しで作品と向き合っていました。

ただ、ふと思うのです。あの会場にいた人々のうち、どれくらいの人がマルジェラの仕掛けた「問い」を、ある程度の解像度で受け止められたのだろうかと。

「マルタン・マルジェラ」という名前は、ファッション界の伝説として今もなお絶大な引力を持っています。「あのマルジェラの個展が日本初開催」という話題性だけでも、十分に集客は成立する。けれど、本人がファッションを退いてから17年。今の彼の活動を熱心に追ってきた人は、そう多くないはずです。

もちろん、「全員が完全に理解している必要はない」というのは言うまでもありません。アートとは、そもそも理解の対象ではなく、体験の対象です。

ただ、マルジェラの場合、「わからない」がそのまま「楽しめない」に直結しやすい作風なのも事実だと思います。京都の白い彫刻も、東京のビニール邸宅も、視覚的な美しさやインスタ映え的な派手さで「とりあえず楽しめる」タイプの展示ではありません。

それでも会場に詰めかけた多くの人々が、何かしらの問いを持ち帰ったのだとしたら、この展覧会は確かに成功していたのだと思います。「わからない」を抱えたまま帰る経験こそ、現代において最も貴重な体験の一つかもしれないからです。

これから訪問する人へ|チケット・所要時間・楽しみ方のヒント

ここから先は、実用的な情報です。これから訪問予定の方は参考にしてください。

東京・九段ハウスの基本情報

項目内容
会場九段ハウス(旧山口萬吉邸)
住所東京都千代田区九段北1-15-9
アクセス東京メトロ・都営線「九段下駅」徒歩約5分
会期2026年4月11日(土)〜5月5日(火・祝)※会期延長後
開館時間10:00〜19:00(最終入場18:00)
料金一般2,500円(税込)
チケットArtSticker(オンライン)日時指定制
会期中休館なし
所要時間目安45分〜60分

人気の展示なので、訪問予定日が決まったら早めにチケットを確保することをおすすめします。週末は特に売り切れが早いです。

京都・タカ・イシイギャラリー京都の基本情報

項目内容
会場タカ・イシイギャラリー京都
住所京都市下京区矢田町123
アクセス阪急「烏丸駅」または京都市営地下鉄「四条駅」
会期2026年4月17日(金)〜5月16日(土)
開廊時間10:00〜17:30
休廊日日、月、火、水、祝
料金無料(予約制)
所要時間目安30〜45分

京都は無料で見られるのが嬉しい点です。ただし開廊日が木・金・土に限られるので、訪問日程の調整は必要です。

両方ハシゴするなら?効果的な訪問順

両会場を訪れる場合、私のおすすめは「京都→東京」の順番です。

理由は二つあります。一つは、京都の「白い静謐さ」を先に体験することで、東京のビニール被覆の異様さがより際立つこと。もう一つは、京都の彫刻群に込められた「身体への探求」というテーマを頭に入れた状態で東京に行くと、九段ハウスの作品群がより立体的に読み解けるようになることです。

新幹線でつなげば、週末1泊2日でも両方訪問可能です。

「難解さ」とどう向き合うか

最後に、マルジェラの展示を楽しむためのヒントを一つ。

「理解しよう」と気負わないことです。

これは諦めの提案ではありません。むしろ逆で、「わからない」をそのまま受け止める態度こそが、マルジェラの作品を最も深く体験する方法だと感じました。会場では、目の前の作品に対して何かを感じたら、それをまず大切にする。論理的な解釈は、後からゆっくり追いかければよい。

公式が用意しているキャプションや解説も最小限です。これは不親切ではなく、マルジェラ自身の意図によるものでしょう。「言葉で説明されないこと」を、まず体感してほしいというメッセージとして受け取りました。

おわりに|「答えのない展示」を歩いて見えてきたこと

京都4月18日、東京4月25日。一週間あけて訪れた二つの個展は、見終わった今もなお、私の中で完全には消化されていません。

マルジェラがファッション界を退いてから17年。彼が「現代美術家」として日本で初めて開いた大規模個展は、決して見やすい展示ではありませんでした。難解で、ダークで、観客を試すような部分も多かった。けれど、だからこそ価値があった。

京都の白い空間に佇む下着で切り出された裸像。東京の九段ハウスを覆い尽くすビニールシート。髪の毛で覆われた女性の顔のCM。黒髪から白髪へグラデーションする毛髪の球体。これらの記憶は、私の中で答えを持たないまま、ゆっくりと熟成されていくのだと思います。

「わからないものに耐える力」を、現代社会はどんどん失いつつあります。SNSは即座に答えを与え、検索エンジンは秒で正解を提示し、AIは問いを完結させる。そんな時代に、マルジェラは「答えを与えない」「問いだけを残す」というスタンスを貫き続けています。

九段ハウスを出て、桜が散り始めた靖国通りを歩きながら、ふと思いました。あのビニールシートに覆われた邸宅の中で、私は何を見ていたのだろう。それを言葉にできない自分の不甲斐なさを少しだけ感じながら、けれど同時に、「言葉にできないものに出会えたこと」自体への喜びも確かに感じていました。

マルジェラ自身の言葉を、もう一度引いて、この記事を閉じたいと思います。

「私は答えを示すよりも、問いを投げかけたいのです」

二つの個展は、確かに私にいくつもの問いを残してくれました。会期中にこの記事を読んでくださった方が、もし時間を作って実際の会場に足を運んでくださるのなら、ぜひその「問い」を持ち帰ってほしいと思います。

東京の会期は2026年5月5日まで、京都の会期は5月16日まで。マルジェラの仕掛けた静かな問いと向き合うには、まだ少しだけ時間が残されています。

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