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2026年4月18日に京都・タカ・イシイギャラリー京都、4月25日に東京・九段ハウス。一週間あけて、同じアーティストの個展を二つの都市で見てきました。

率直に言って、難解でした。それも生半可な「難解さ」ではなく、見終わったあとも数日間、頭の中に残り続けるタイプの難解さです。京都の白い空間に佇む彫刻を前にしても、東京の九段ハウスを覆い尽くす不穏なビニールシートの中を歩いていても、「これは一体何を見せられているのか」という問いが消えませんでした。

しかも不思議なことに、京都と東京は同じマルタン・マルジェラの個展でありながら、まるで別の作家による展示のように見えたのです。京都は静かで、白くて、空間そのものを呼吸させていた。一方の東京は、邸宅の主要な部分すらビニールで覆い隠し、ダークで重く、こちらに有無を言わさない圧があった。

東京の九段ハウス展は、チケットがかなり前から完売するほどの人気でした。会場は人で溢れていて、皆が真剣に作品と向き合っていた。けれど、ふと思ったのです。あの会場にいた何人が、マルジェラの仕掛けた「問い」をどこまで読み取れたのだろうかと。そもそも私たちは「理解しよう」とすべきなのだろうか。

この記事では、二つの個展のレポートと並行して、最初と最後に少し長めの考察を置きました。マルジェラがファッション界を退いてから17年。アーティストとしての彼が日本で初めて開いた大規模個展に込めたものを、訪問者の目線で読み解いていきます。

そもそもマルタン・マルジェラとは?ファッションを「降りた」デザイナーの現在地

展示のレポートに入る前に、マルタン・マルジェラというアーティストについて少しだけ整理しておきます。彼を知らずに展示を見ると、ほぼ何も受け取れないと思うからです。

1988年Maison Martin Margiela創設から2008年の引退まで

マルタン・マルジェラは1957年、ベルギーのルーヴェン生まれ。アントワープ王立芸術学院を1980年に卒業し、ジャン=ポール・ゴルチエのアシスタントを経て、1988年にパリで「Maison Martin Margiela」を設立しました。

ブランドのコンセプトは、当時のファッション業界に対する強烈な異議申し立てでした。デザイナーの顔を出さない「匿名性」、古着を解体して再構築する「リコンストラクション」、見せるはずのない縫い代や仮縫いを表に出す「未完成の美学」。1997年から2003年にはエルメスのウィメンズ クリエイティブ・ディレクターも兼任し、その後2008年、ブランド20周年ショーを最後にファッション界を電撃引退します。

引退後、彼は一切メディアに姿を見せず、アーティストとしての活動に専念してきました。

2009年以降、アーティストとしての15年

転機となったのは、2021年にパリのラファイエット・アンティシパシオンで開催された初の個展でした。20点以上のインスタレーション、彫刻、コラージュ、ペインティング、映像作品が公開され、ファッション界の伝説が「アーティスト」として再デビューを果たしたのです。

その後、北京のMWoods、ソウルのロッテ美術館、アントワープ、ブリュッセル、アテネと各地を巡回しながら、マルジェラの「現代美術家としての顔」は静かに、しかし確実に世界に浸透していきました。そして2026年春、満を持して日本での大規模個展開催に至ります。

東京の九段ハウスと京都のタカ・イシイギャラリー京都での同時開催。両方とも、作家にとって日本で初めての展覧会です。

マルジェラ作品を貫くキーワード「身体・痕跡・不在の感覚」

最近のインタビューで、マルジェラは自身のアート作品についてこう語っています。

「私のアートにおいて匿名性そのものを実践しているわけではありません。むしろ私は『不在の感覚』を作品の中に立ち上げることに惹かれています。それは非常に興味深いものだと感じています」

「匿名性」と「不在の感覚」を、本人は明確に区別しています。前者は彼自身のプライバシーを守るための態度であり、後者は作品の中に立ち上げる感覚的な質である。この区別を頭に入れておくと、二つの個展の見え方が変わってきます。

そしてもう一つ、彼の創作観を端的に表す言葉も同じインタビューで繰り返し登場します。

「私は答えを提示するよりも、問いを残すことを選びたいのです」

このフレーズが、二つの個展を読み解くための一番大きな鍵になります。

京都・タカ・イシイギャラリー京都|白い空間が浮かび上がらせる「身体の輪郭」

それでは、訪問した順に京都展からレポートします。

タカ・イシイギャラリー京都の基本情報とアクセス

項目内容
会場タカ・イシイギャラリー京都
住所京都市下京区矢田町123
会期2026年4月17日(金)〜5月16日(土)
開廊時間10:00〜17:30
休廊日日、月、火、水、祝
料金無料(予約制)
出展点数約14点(2018〜2025年制作の近作)

タカ・イシイギャラリー京都は、五条通エリアにある町家を改装したギャラリー。木造の梁と白く塗られた壁が共存する、京都らしい静謐な空間です。

予約制ですが料金は無料。事前に公式サイトのフォームから予約して訪問しました。

エントランスの暖簾は、実はマルジェラ自身の作品

実は京都展で見落とされがちなポイントが、エントランスの暖簾です。

来日に合わせて公開されたインタビューで、マルジェラ本人がこう明かしています。

「京都のタカ・イシイギャラリーの歴史ある建物を初めて訪れた際、入り口の暖簾に強く惹かれました。それを自分なりに装飾してよいと聞いたとき、とても心が躍りました。しかし、装飾するというよりも、素材を変えることでそれ自体を変容させたいと感じたのです。そこで、合成ファーで暖簾を制作するというアイデアに至りました」

つまり、入口の段階から既にマルジェラの作品の中に入っているのです。日本の伝統的な建材である暖簾を、合成ファーという真逆の質感の素材に置き換える。「変容」というキーワードは、彼の創作の根幹にあるものですが、京都ではそれを最もわかりやすい形で、しかし最も気付かれにくい場所に配置しているのが心憎い演出です。

訪問前、私はこの暖簾の意味をまったく知らないまま、ただ普通の暖簾としてくぐっていました。後からこのインタビューを読んで、自分が既に作品の中に入っていたことに気付かされ、思わず笑ってしまいました。

白で統一された空間:ギャラリーをそのまま生かすという選択

ギャラリーに足を踏み入れた瞬間、まず印象に残ったのは「白」でした。

壁も天井も床も、ほとんどが白で構成されています。京都の町家らしい木の梁や柱、窓から差し込む自然光、そういった既存の空間要素は、ほぼそのままの状態で残されている。マルジェラは、京都ではギャラリー空間に手を加えていません。むしろ「空間に作品を置く」という、ある意味で正攻法の展示形式を選んでいます。

ただ、この「白」を見て深読みしすぎるのは禁物だとも、本人インタビューを読んで思いました。マルジェラは現在の白についてこう述べています。

「現在は、白は黒や赤と比べて特別に重要な色というわけではありません。ファッションの時代において白が持っていたステートメント性は、今ではすでに過去のものです。ただ、私は今でもアトリエを白で保つことを好んでいます。その中立性が、どの作品にも偏ることなく、フラットに向き合える環境を保ってくれるためです。つまり、とても実用的なのです」

本人にとって白は、もはや声明ではなく、作品をフラットに見せるための実用的な選択。京都の白い空間が静謐に感じられたのは、おそらくマルジェラの「中立性を保つ」という思想の現れです。深読みするよりも、まず作品そのものに目を向けてほしいというメッセージとして受け取りました。

《Tops & Bottoms》ルーヴルの裸像を「下着」で切り出す

会場で特に存在感を放っていたのが、彫刻シリーズ《Tops & Bottoms》です。

これはルーヴル美術館に収蔵されている古典的な大理石彫刻に基づいた作品で、規範的な裸像が「現代の下着の形状」で切り出されています。つまり、本来は身体を覆い隠すための下着の輪郭が、逆に身体を切り取るマスクとして機能している。下着の本来の機能を反転させ、その内部にあるべき身体を露見させているのです。

近づいてみると、表面はカーペットやシリコンといった素材で覆われており、独特のテクスチャーを帯びていました。視覚だけでなく、触覚的にも訴えてくるような質感です。

古典彫刻の威厳、下着の親密さ、フェイクな素材の違和感。三つのレイヤーが重なり合った瞬間に、見ているこちらの身体感覚がぐらりと揺れる。そんな体験でした。

《Barrier Sculpture》フェイクファーで覆われた都市のバリケード、本人いわく「官能的」

もう一つ印象的だったのが《Barrier Sculpture》(2024年)。

街中で見かける工事現場の保護バリケードや、人の動線を制限する柵。あの形状そのままに、ただし表面が真っ白なフェイクファーで覆われている、というオブジェです。

この作品について、マルジェラ本人はこう語っています。

「《Barrier》シリーズ(2024)は、本来は工事現場で使われる無機質な道具が、合成ファーに覆われることで、どこか官能的な存在へと変わっていきます」

無機質なバリケードと、官能。一見結びつかない二つの要素が、フェイクファーという素材ひとつで化学反応を起こす。「コントラストや予期しないものの組み合わせを好む」と本人が語る通り、この作品は彼の創作思想の最もわかりやすい表現の一つかもしれません。

機能的な硬さと、ファーの柔らかさ。守ることと隠すこと。秩序と動物性。相反するイメージが一つのオブジェに同居していて、見ているうちに「これは一体、何を遮断しようとしているのだろう」という問いが浮かんできます。

《Black Nail Polish》《Kit 》──存在しない完成形が浮かぶ

入口近くの石のテーブルには、《Black Nail Polish》という小さな作品が置かれていました。爪のような形をした、ニンフェンブルク磁器製の焼成用具5点で構成された作品です。

ただし不思議なのは、焼成から生み出されるはずの「完成品」が、ここには存在しないこと。あくまで「焼くための道具」だけが提示されている。

同様に、組み立て前のプラモデルを思わせる《Kit (Black)》という作品もありました。パーツがそこに揃っているのに、組み立てられていない。完成形は鑑賞者の頭の中で「投影」されるしかない。

これらの作品が突きつけてくるのは、「不在」「未完成」「秘匿」というテーマです。マルジェラは、見えないものや差し控えられたものを通じて、私たちに「想像で補わせる」ことを促してきます。

京都展のコンセプト:顕在化と秘匿の狭間にある身体

京都展全体を貫いているのは、「顕在化と秘匿」「露見と保護」という対立軸です。

下着で切り出された裸像。ファーで覆われたバリケード。完成形が不在の道具。シリコンの抽象的フォルム。どの作品も、何かを「見せる」と同時に「隠している」。そして、ありふれた素材を変容させることで、まったく別の感覚を呼び起こしている。

正直、現地で作品を見ているだけでは、コンセプトの全体像はつかめませんでした。白い空間に静かに佇む彫刻群は、それぞれが独立した小宇宙のようで、共通する文脈を読み取るには相応の予備知識が必要です。「美しいけれど、わからない」。これが京都での率直な感想でした。

ただ、その「わからなさ」が不快ではないのです。京都の白い空間は、わからないまま佇んでいることを許してくれる懐の深さがありました。

東京・九段ハウス|1927年の邸宅をビニールで覆う、ダークで重い「未完の現場」

東京・九段ハウス|1927年の邸宅をビニールで覆う、ダークで重い「未完の現場」

そして一週間後の4月25日、東京・九段ハウスへ向かいました。京都の余韻を引きずったまま訪れた東京の展示は、しかし、まったく別の世界でした。

九段ハウスとは?1927年竣工、内藤多仲設計の登録有形文化財

九段ハウス(旧山口萬吉邸)は、1927年(昭和2年)に竣工したスパニッシュ様式の洋館です。鉄筋コンクリート造、地下1階・地上3階。

設計は、後に「耐震構造の父」と呼ばれる内藤多仲をはじめ、木子七郎、今井兼次という日本を代表する3人の建築家が手がけました。1923年の関東大震災を経験した施主の山口萬吉が、内藤の壁式鉄筋コンクリート造に感銘を受けて採用したと伝えられています。1945年の東京大空襲でも周辺の木造建物が焼失する中、九段ハウスは奇跡的に焼け残り、ほぼ建築当時の姿を保ったまま今日まで残ってきました。

2018年に国の登録有形文化財に認定され、現在は会員制ビジネスイノベーション拠点として活用されています。

つまり九段ハウスは、ただの「綺麗な洋館」ではありません。約100年にわたって人が住み、働き、出入りしてきた「生きた邸宅」なのです。

エントランスからすでに違和感。床も窓もビニールカバーで覆われた空間

入場してすぐ、違和感が訪れました。

廊下の床、階段、壁、そして窓。九段ハウスの「主役級」とも言える美しい木製建具や格子窓まで、薄いビニールシートで覆われていたのです。まるで、内装工事の養生がそのまま展示物になっているような状態。

これは事故ではなく、マルジェラ本人によるキュレーションです。展覧会全体を「ワーク・イン・プログレス(制作途中)」の状態に見せることで、従来の展覧会の定義そのものを問い直す。来場者の期待を、良い意味で裏切る。そんな意図が込められていると公式の解説には書かれていました。

ただ、この説明を後から読んでもなお、現地で受けた衝撃は別格でした。歴史的価値のある邸宅を、こんなにも遠慮なく覆い尽くしてしまう。これは敬意なのか、挑発なのか、それとも建物そのものを「素材」として扱う冷徹さなのか。判断に迷う光景でした。

38点の作品が点在する「邸宅全体がインスタレーション」

九段ハウスの展示は、約38点の作品が邸宅の各部屋に点在する形式です。2011年から2025年にかけて制作された作品が、玄関、応接間、書斎、寝室、地下、屋上に至るまで、ほぼすべての空間に配置されています。

来場者は順路に従って邸宅を巡り、部屋から部屋へ移動するごとに別の作品と対面することになります。広間で大規模なインスタレーションを見たあと、急に小部屋に入って、ガラスケースに収められた小さなオブジェと向き合う。建築のリズムと、作品のリズムが交差する。

これが、京都との最大の違いでした。京都は「ホワイトキューブで作品を見せる」展示。東京は「邸宅そのものが体験装置になる」展示。観客の身体は、作品を見るための装置として、邸宅の中を移動させられるのです。

《Vanitas》黒髪から白髪へ、4つの球体が時間を可視化する

東京展で最も話題を呼んでいた作品の一つが《Vanitas》です。

人の髪の毛が植え付けられた球体が4つ並んでおり、左から右へ、黒髪から白髪へとグラデーションになっている。加齢、時間の流れ、生命の有限性。バニタス(ラテン語で「空虚」「儚さ」の意)というタイトルが示す通り、これは現代版の「メメント・モリ」と読めます。

同じ会場には、ガラスケースに収められた赤い毛髪で覆われた頭部のオブジェもあり、別の部屋には5色の異なる毛髪で覆われた頭部が整然と並んでいました。これらは「人生の5つのステージによる髪色」を並べたものとされています。

《Shore Shoes》熱帯のビーチに打ち上げられたサンダルが、新しい靴になる

九段ハウスの会場で印象的だった作品の一つに《Shore Shoes》があります。これも本人の解説を読むと、その成り立ちが鮮やかに見えてきます。

「《Shore Shoes》(2011)は、熱帯のビーチに打ち上げられたビーチサンダルを、新たな靴の形へと再構成しています」

漂着物としてのビーチサンダル。誰かが履いていて、海に流され、潮に揉まれ、長い時間をかけて別の浜辺にたどり着いたもの。それを再構成して、もう一度「靴」という形に戻す。

ファッション時代のマルジェラが古着を解体・再構築していたのと、まったく同じ思想です。素材の歴史をいったん断ち切り、別の文脈で蘇生させる。捨てられた素材に、もう一度生命を吹き込む。本人は「変容とは、必ずしも大きな操作を伴うものではなく、素材を置き換えるだけでも成立します」と語っており、この発想がそのまま立体化されたのが《Shore Shoes》だと言えます。

髪のオブジェと、父親の理髪店という原風景

なぜ、こんなにも髪なのか。

調べてみると、マルジェラの父親は理髪店を営んでいたそうです。幼少期から、切り落とされた髪の毛が日常の風景の中にあった。床に散らばる髪の束、ハサミから落ちる髪の毛。それは身体の一部でありながら、身体から切り離された「痕跡」でもある。マルジェラの作品における「髪」は、彼の創作の根源にある原風景なのです。

このことを知ってから改めて作品を見返すと、九段ハウスの空間に点在していた「髪」のオブジェ群が、急に意味を持って迫ってきます。

身体は不在。けれど、身体の最も親密な痕跡である髪は、ガラスケースに陳列されている。これは「人間の標本」のようでもあり、「形見」のようでもあり、「未完成の彫像」のようでもある。

九段ハウスというかつての邸宅、つまり誰かが生活していた場所に、こうした「身体の痕跡」が散りばめられているという構造は、やはり計算され尽くしたものだと感じました。

《Shore Shoes》《Torso》《Greysteps》──断片化される身体

公式の主要作品リストには、《Shore Shoes》《Vanitas》《Torso》《Greysteps》などの名前が挙がっています。

トルソ(胴体)、靴、足跡。どれも「身体の一部」あるいは「身体が触れた何か」を扱った作品群です。マルジェラの作品では、身体が一つの完全な姿として登場することはほとんどありません。常に断片化され、覆い隠され、輪郭だけが提示される。

そしてこの「断片化」「不完全性」という特徴は、両会場に共通するテーマでもありました。

東京の映像作品|気持ち悪い笑い声と、見えそうで見えない顔

東京展で最も強烈な印象を残したのは、邸宅のある一室で上映されていた映像作品でした。

これがもう、本当に気持ち悪かったのです。

映像はCM風の構成。画面に映るのは女性のクローズアップ。けれど、彼女の顔ははっきり見えません。なぜなら、長い髪が顔の上にかぶさっていて、目も口も鼻も覆い隠されているから。彼女は何度も笑います。けれどその笑い声が、ただただ不穏なのです。明るい笑い声のはずが、画面の質感とどこかズレている。

そして、何カットものテイクが繰り返されます。同じような構図、似たような所作、けれど微妙に違う表情。顔が見えそうになる瞬間がある。けれど、絶対に見えない。髪がそれを許さない。

一定時間ごとに「CM」のような映像が挟まり、それはスキップされる。でもスキップという行為自体が編集として組み込まれているような構成で、こちらが「これは何の物語なのだろう」と推測しようとする手がかりを次々に奪っていきます。

正直、長時間見ていられないほど居心地が悪かった。けれど、この居心地の悪さこそが、マルジェラが意図して作り上げたものなのでしょう。「顔を見せない」「物語を完結させない」「視聴者に意味を与えない」。映像メディアという、本来は「答えを与える」ことを得意とするフォーマットを、徹底的に裏返している。

そして、この「顔を見せない」というモチーフこそ、彼の言う「不在の感覚」を最もダイレクトに体現したものだと感じました。彼女は確かにそこにいる、画面の中で笑っている、けれど私たちは決してその顔にたどり着けない。

「ダークで重い」と感じるのはなぜか

東京展全体を覆っていた印象は、「ダークで重い」というものでした。

ビニールに覆われた邸宅という視覚的な重さ。髪の毛のオブジェが醸し出す身体の不在感。映像作品の不穏さ。これらが積み重なって、来場者は「何か理解できない、けれど確かに迫ってくる」感覚に包まれます。

そして、京都展との大きな違いは、ここに「身体の痕跡」と「邸宅の記憶」が二重写しになっている点でした。京都の作品にも身体は登場しますが、白い空間の中ではどこか抽象化されて、観念的な存在として処理されている。一方の東京は、「ここに住んでいた人々の痕跡」と「マルジェラの提示する身体の痕跡」が二重写しになって、もっと生々しく襲ってくる。

亡霊たちの邸宅。そんな言葉が頭に浮かびました。

京都と東京、二つの個展はなぜこんなに違うのか

ここで一度、二つの個展を整理して比較してみます。

比較項目京都・タカ・イシイギャラリー東京・九段ハウス
会場の性格町家を改装したギャラリー1927年竣工の邸宅
空間処理既存の空間をそのまま生かす床・壁・窓をビニールで全面被覆
出展点数約14点約38点
主な色調白基調、自然光暗め、ビニール越しの濁った光
印象静謐、引き算、余白重厚、過剰、被覆
入場料無料・予約制2,500円・日時指定制
作品の代表例Tops & Bottoms、Barrier SculptureVanitas、毛髪のオブジェ、映像作品

京都はホワイトキューブ的な見せ方、東京は劇場的・体験装置的な見せ方。同じアーティストが、同じ時期に、まったく異なるアプローチで作品を提示している。これは偶然ではなく、明らかにマルジェラ自身の意図によるものです。

そして、ここで誘惑されがちなのが、「白の京都」と「黒の東京」を二項対立として読み込むことなのですが、これは少し慎重に見たほうがよさそうです。前述のとおり、マルジェラ本人は「現在は白に特別な意味はない、実用的な選択だ」と明言しています。

むしろ二つの個展に共通しているのは、「鑑賞者と作品の親密な距離」を作り出すという狙いの方です。最近のインタビューで本人はこう語っています。

「作品と鑑賞者のあいだに親密な関係が生まれるような空間をつくることを大切にしています。すべての作品が互いに干渉し合ってしまうような、開かれすぎた展示空間は避けたいと考えています」

京都の小さな町家ギャラリーも、東京の邸宅も、どちらも「親密な距離で作品と向き合う」という条件を満たした場所です。サイズも雰囲気もまったく違うけれど、本人の関心事は終始一貫している。むしろこの一貫性こそが、二つの会場をハシゴしないと見えてこない部分でした。

考察|九段ハウスの「ビニール」は何を覆い、何を立ち上げているのか

ここからは、最後の考察パートです。

二つの個展を見終わってからずっと考えているのは、九段ハウスのビニールシートが何を意味していたのか、という問題です。本人インタビューも踏まえて、解像度をもう一段階上げて考えてみます。

「完成は危うい瞬間」というマルジェラの哲学

マルジェラの最近のインタビューで、特に印象に残った発言があります。

「作品が完成したときは、大きな満足感を覚えます。しかし同時に、それは非常に危うい瞬間でもあります。というのも、まだ何かを付け加えられるのではないかと考えてしまうことがあるからです。その結果、作品の新鮮さを損なったり、ときには完全に壊してしまうことさえあるのです」

「完成」が危うい瞬間である、というこの感覚。これは九段ハウスのビニールシートが何をしているのかを考える上で、決定的なヒントになります。

ビニールシートは、邸宅と作品の関係を「永遠に未完の状態」に固定する装置として機能しているのではないでしょうか。歴史的価値を持つ邸宅を、ビニールというありふれた素材で覆うことで、空間全体が「まだ完成していない」「これから何かが起きるかもしれない」という時間的な揺らぎを帯びる。

完成を拒むこと、未完成のまま提示すること。それはファッション時代のマルジェラが、仮縫いの状態の服を商品化したり、白いタグだけでブランドのアイデンティティを示したりしていたのと、まったく同じ思想です。彼の創作の核には、「閉じない」「決定しない」「保留する」という姿勢が一貫してある。

「不在の感覚」を立ち上げる、という視点

もう一つの解釈の補助線が、本人の言う「不在の感覚」です。

繰り返しになりますが、マルジェラは「アートにおける匿名性そのものは実践していない、不在の感覚を立ち上げることに惹かれている」と明言しています。これは大切な区別です。

九段ハウスの展示で起きていたのは、まさに「不在の感覚」の立ち上げでした。

ビニールシートに覆われた邸宅は、本来そこにあるべき暮らしの実体感を半透明にぼかしている。身体は登場せず、髪のオブジェだけがガラスケースに陳列されている。映像作品の女性は顔を見せない。誰かがそこにいたはず、誰かが今もどこかにいるはず、けれど捕まえることができない。そういう「不在感」が、邸宅全体を包んでいたのです。

これは「匿名性」とは違います。匿名性は「誰かが意図的に名前を伏せる」ことですが、不在の感覚は「誰かがそこにいないこと」を空間として体感させること。マルジェラはこの違いに非常に意識的で、後者を作品で実現しようとしている。

社会風刺と読むことは可能か?

ここで一つ、私自身の解釈の話を正直にしておきます。

最初にこの記事を書こうとしたとき、私は九段ハウスのビニール被覆を「SNS時代のプライバシー消費構造への風刺」として読みました。透明な膜越しに他人の私的な空間を消費する現代社会の構造を、物理的に立ち上げているのではないか、と。

ただ、本人インタビューを読み込むと、マルジェラ自身はこういう「社会批評的な読み」をかなり遠ざけているように感じます。彼が一貫して語るのは、「親密な関係」「問いを残す」「鑑賞者の没入」「変容」「日常の変質」といった、もっと体験的で本人の創作観に近い言葉ばかりです。

つまり、社会風刺として読むことは可能だけれど、それは鑑賞者の側の解釈であり、本人の意図というよりは、本人が「答えを示すよりも、問いを残す」と言っているところからこちらが拾い上げた問いの一つに過ぎない。マルジェラ本人は、解釈の自由を鑑賞者に開いているけれど、自分から特定の解釈に乗ることはしない。これがアーティストとしての彼の最も誠実な部分なのだと思います。

ですから、私が当初考えた「社会風刺」も、考察として残してよいけれど、それは本人の意図ではなく、鑑賞者である私が受け取った問いの一つです。それを混同しないようにすることが、誠実な記述の条件だと感じました。

観客は「理解」する必要があるのか?マルジェラ自身が答える

そして、ここで彼自身の言葉に戻ります。

「私は答えを提示するよりも、問いを残すことを選びたいのです」 「鑑賞者が歩みを緩め、時間をかけて作品と向き合ってくれることを望んでいます。外の環境から離れ、作品の中に没入していくような瞬間が生まれると、心を動かされます」

この二つの発言が、すべてを言い尽くしているように思います。

マルジェラの作品は、理解されるために作られていない。観客の中に「何だろう?」という問いを発生させること、そしてその問いと向き合う時間そのものを作り出すこと。それがゴールなのです。だから、現地で「わからない」と感じたとしても、それは間違いではない。むしろそれこそが、作品が機能した証拠だとも言える。

私自身、京都でも東京でも、最後まで「これは何だろう」という問いを抱えたまま会場を出ました。けれどその「わからなさ」が、二週間経った今でも頭の中に残り続けている。これがマルジェラの仕掛けなのだとしたら、私は見事に彼の意図に絡め取られているわけです。

チケットがsold outだった東京。みんなどこまで「読めた」のだろうか

東京の九段ハウス展は、チケットがかなり前から完売するほどの人気でした。会場は終始多くの観客で賑わっており、皆が真剣な眼差しで作品と向き合っていました。

ただ、ふと思うのです。あの会場にいた人々のうち、どれくらいの人がマルジェラの仕掛けた「問い」を、ある程度の解像度で受け止められたのだろうかと。

「マルタン・マルジェラ」という名前は、ファッション界の伝説として今もなお絶大な引力を持っています。「あのマルジェラの個展が日本初開催」という話題性だけでも、十分に集客は成立する。けれど、本人がファッションを退いてから17年。今の彼の活動を熱心に追ってきた人は、そう多くないはずです。

もちろん、「全員が完全に理解している必要はない」というのは言うまでもありません。アートとは、そもそも理解の対象ではなく、体験の対象です。マルジェラ本人も「鑑賞者が歩みを緩め、時間をかけて作品と向き合ってくれることを望む」と語っているのであって、「正解にたどり着いてほしい」とは一言も言っていません。

ただ、マルジェラの場合、「わからない」がそのまま「楽しめない」に直結しやすい作風なのも事実だと思います。京都の白い彫刻も、東京のビニール邸宅も、視覚的な美しさやインスタ映え的な派手さで「とりあえず楽しめる」タイプの展示ではありません。

それでも会場に詰めかけた多くの人々が、何かしらの問いを持ち帰ったのだとしたら、この展覧会は確かに成功していたのだと思います。「わからない」を抱えたまま帰る経験こそ、現代において最も貴重な体験の一つかもしれないからです。

これから訪問する人へ|チケット・所要時間・楽しみ方のヒント

ここから先は、実用的な情報です。これから訪問予定の方は参考にしてください。

東京・九段ハウスの基本情報

項目内容
会場九段ハウス(旧山口萬吉邸)
住所東京都千代田区九段北1-15-9
アクセス東京メトロ・都営線「九段下駅」徒歩約5分
会期2026年4月11日(土)〜5月5日(火・祝)※会期延長後
開館時間10:00〜19:00(最終入場18:00)
料金一般2,500円(税込)
チケットArtSticker(オンライン)日時指定制
会期中休館なし
所要時間目安45分〜60分

人気の展示なので、訪問予定日が決まったら早めにチケットを確保することをおすすめします。週末は特に売り切れが早いです。

京都・タカ・イシイギャラリー京都の基本情報

項目内容
会場タカ・イシイギャラリー京都
住所京都市下京区矢田町123
アクセス阪急「烏丸駅」または京都市営地下鉄「四条駅」
会期2026年4月17日(金)〜5月16日(土)
開廊時間10:00〜17:30
休廊日日、月、火、水、祝
料金無料(予約制)
所要時間目安30〜45分

京都は無料で見られるのが嬉しい点です。ただし開廊日が木・金・土に限られるので、訪問日程の調整は必要です。

両方ハシゴするなら?効果的な訪問順

両会場を訪れる場合、私のおすすめは「京都→東京」の順番です。

理由は二つあります。一つは、京都の「静かな展示」を先に体験することで、東京のビニール被覆の異様さがより際立つこと。もう一つは、京都の彫刻群に込められた「身体への探求」「素材の変容」というテーマを頭に入れた状態で東京に行くと、九段ハウスの作品群がより立体的に読み解けるようになることです。

新幹線でつなげば、週末1泊2日でも両方訪問可能です。

「難解さ」とどう向き合うか

最後に、マルジェラの展示を楽しむためのヒントを一つ。

「理解しよう」と気負わないことです。

これは諦めの提案ではありません。むしろ逆で、「わからない」をそのまま受け止める態度こそが、マルジェラの作品を最も深く体験する方法だと感じました。会場では、目の前の作品に対して何かを感じたら、それをまず大切にする。論理的な解釈は、後からゆっくり追いかければよい。

公式が用意しているキャプションや解説も最小限です。これは不親切ではなく、マルジェラ自身の意図によるものでしょう。「言葉で説明されないこと」を、まず体感してほしいというメッセージとして受け取りました。

おわりに|「答えのない展示」を歩いて見えてきたこと

京都4月18日、東京4月25日。一週間あけて訪れた二つの個展は、見終わった今もなお、私の中で完全には消化されていません。

マルジェラがファッション界を退いてから17年。彼が「現代美術家」として日本で初めて開いた大規模個展は、決して見やすい展示ではありませんでした。難解で、ダークで、観客を試すような部分も多かった。けれど、だからこそ価値があった。

京都の白い空間に佇む下着で切り出された裸像。フェイクファーで覆われた工事用バリケード。エントランスで気づかずにくぐっていた合成ファーの暖簾。東京の九段ハウスを覆い尽くすビニールシート。髪の毛で覆われた女性の顔のCM。黒髪から白髪へグラデーションする毛髪の球体。これらの記憶は、私の中で答えを持たないまま、ゆっくりと熟成されていくのだと思います。

「わからないものに耐える力」を、現代社会はどんどん失いつつあります。SNSは即座に答えを与え、検索エンジンは秒で正解を提示し、AIは問いを完結させる。そんな時代に、マルジェラは「答えを与えない」「問いだけを残す」というスタンスを貫き続けています。

九段ハウスを出て、桜が散り始めた靖国通りを歩きながら、ふと思いました。あのビニールシートに覆われた邸宅の中で、私は何を見ていたのだろう。それを言葉にできない自分の不甲斐なさを少しだけ感じながら、けれど同時に、「言葉にできないものに出会えたこと」自体への喜びも確かに感じていました。

マルジェラはこう語っています。

「私は答えを提示するよりも、問いを残すことを選びたいのです」

二つの個展は、確かに私にいくつもの問いを残してくれました。会期中にこの記事を読んでくださった方が、もし時間を作って実際の会場に足を運んでくださるのなら、ぜひその「問い」を持ち帰ってほしいと思います。

東京の会期は2026年5月5日まで、京都の会期は5月16日まで。マルジェラの仕掛けた静かな問いと向き合うには、まだ少しだけ時間が残されています。

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