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2026年5月23日、箱根の山に薄く霧雨が降っていました。仙石原に向かう車のフロントガラスを、細かい雨粒が音もなく流れていきます。5月下旬とはいえ標高約700mの仙石原はかなり肌寒く、新緑がしっとりと湿気を含んで、森全体が深呼吸しているような空気でした。

その日、私はポーラ美術館で開催中の展覧会「SPRING わきあがる鼓動」を訪れ、午後には会場で名和晃平氏のアーティスト・トーク「『PixCell』と『自然』」に参加するために来ていました。80名限定で募集されたこのトークでは、世界的彫刻家・名和晃平氏が、代表作《PixCell》シリーズが生まれた25年余りの歩みを、初めて通史として語ることになっていました。

「PixCellについて単独で話す機会は、ほとんどなかったんです」

トーク冒頭、名和氏自身がそう語ったほどの貴重な機会です。霧雨の中、私はかなり前のめりな気持ちでポーラ美術館の駐車場に車を停めました。

この記事では、5月の箱根の森に佇む美術館の体験から、80名だけが聴いた名和氏のトーク内容、そして名和氏の出品作《PixCell-Deer》との再会までを、できるだけ詳しくお伝えします。少し長くなりますが、現代美術ファンの方にも、これからポーラ美術館を訪れる方にも、楽しんでいただけるはずです。

SPRING わきあがる鼓動 とは

まずは展覧会の基本情報を整理しておきます。

項目内容
展覧会名SPRING わきあがる鼓動
会期2025年12月13日(土)〜2026年5月31日(日)
休館日会期中無休
会場ポーラ美術館 展示室1、2、3
出品作家17作家/約120点
開館時間9:00〜17:00(入館は16:30まで)
入館料大人2,200円/大学生・高校生1,700円/中学生以下無料
所在地神奈川県足柄下郡箱根町仙石原小塚山1285

「箱根」自体を主題にした初めての展覧会

「SPRING わきあがる鼓動」は、ポーラ美術館が開館以来初めて「箱根」そのものを主題にした企画展です。会期タイトルの「SPRING」には、季節としての春と、温泉地・箱根を象徴する「湧き出る泉」のダブルミーニングが込められています。地中深くから湧きあがる温泉のように、人間と世界の奥底から立ち上がってくる「鼓動」を主題に、絵画、彫刻、工芸、インスタレーションを横断する約120点が並びます。

企画は同館主任学芸員の内呂博之氏らによるもの。江戸から現代まで時代をまたぎ、東西の作家を交差させる構成は、ポーラ美術館らしい知的な手つきが感じられます。

江戸から現代までをつなぐ17作家

出品作家のラインナップは贅沢そのもの。歌川広重、五姓田義松、青木美歌、名和晃平、大巻伸嗣、丸山直文、イケムラレイコ、小川待子、杉本博司、チャールズ・ワーグマン、クロード・モネ、ポール・ゴーガン、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・ルソー、ツェ・スーメイ、パット・ステア、アンゼルム・キーファーなど、17名の作家による約120点が展示されています。

19世紀の日本美術と西洋印象派、戦後の前衛、そして現代彫刻と現代インスタレーションが、ひとつの会場でゆるやかに会話している。会期は5月末まで。私は会期終盤に駆け込んだかたちですが、十分間に合いました。

展示室をめぐる:印象に残った作品たち

展覧会は展示室1から3まで、ゆるやかなテーマの流れに沿って構成されていました。

入口近くに置かれた歌川広重の《東海道五十三次》のシリーズが、まず箱根という土地の記憶を呼び覚まします。江戸時代の旅人がたどった峠の風景。その同じ土地を、五姓田義松が明治期に油彩で描き直し、さらにチャールズ・ワーグマンが西洋人の目で写し取っている。19世紀の箱根が、複数の眼差しによって何重にも重ねられていく感覚が新鮮でした。

中盤の展示室ではモネ、ゴーガン、ゴッホ、ルソーといった印象派以降のヨーロッパ絵画が並びます。湖、森、花、葉、雲。光と空気の鼓動が画面の中で揺れている。これらはポーラ美術館のコレクションの強みでもあり、いつ訪れても安定の見応えがあります。

そして現代美術のセクションへ進むと、空気が変わります。大巻伸嗣の繊細な気配、青木美歌のガラスの植物、丸山直文の浸み込むような絵画、イケムラレイコの夢のような少女像、杉本博司のモノクロ写真、アンゼルム・キーファーの厚みのある画面。それぞれが「生命の鼓動」というテーマを別の角度から響かせていました。

霧雨が降る5月の箱根、館内に流れる静かな音と、自然光が抑え気味に入る展示空間。じっくり鑑賞していると、いつの間にか2時間近く経っていました。

エピローグに置かれた名和晃平《PixCell-Deer》

展覧会のエピローグにあたる位置に、名和晃平氏の《PixCell-Deer》が2点並んで設置されていました。

作品制作年所蔵
《PixCell-Deer#72(Aurora)》2022年個人蔵
《PixCell-Deer#74》2024年ポーラ美術館

二頭の鹿はいずれも北海道・釧路の鹿で、ほぼ同じ構図で向かい合うように配置されています。一方は自然の毛皮に近い色調を残し、もう一方は別の惑星から来たような皮膚の色を帯びている。透明なガラス球で覆われた表面が、無数のレンズとなって周囲の光景を取り込み、拡大し、歪めて返してきます。

後のトークで明かされたのですが、この「同じポーズの二頭を向かい合わせる」という展示の仕方は、名和氏自身にとっても初めての試みだったそうです。一頭ずつの《PixCell-Deer》は世界各地の美術館やギャラリーで展示されてきましたが、二体を鏡像のように対峙させる構成は本展が初。長く名和氏の作品を追ってきた鑑賞者にとっても、新鮮な体験だったはずです。

近づくと、球体ひとつひとつが小さな水滴のように見える。少し離れると、それらが集まってひとつの鹿の輪郭を結ぶ。さらに移動すると、表面に映る色や像がゆらゆらと変化する。鑑賞者は、立ち止まることのできない作品の前で、半ば強制的に「見ること」の構造を意識させられます。

そして気づくのは、二頭が「同じ姿勢でこちらを見返している」ということ。鑑賞者は二頭の間に立つことで、見ているのか、見られているのか分からなくなる。後で名和氏のトークを聞いてから、この体験の意味は決定的に変わることになります。

80名限定、アーティスト・トーク「『PixCell』と『自然』」

午後の決まった時間、展示室そばの会場にトーク参加者が集まり始めました。

事前応募で80名に絞られた小さな会場です。集まっているのは、現代美術関係者らしき方、コレクター風の方、美術系の学生風の若い方、そして名和氏の作品を長く追ってきたであろう熟年の鑑賞者の方など。私も含めて、皆さん表情に静かな期待が見えます。

「親密で温かい」というのが、この場の率直な印象でした。世界の現代美術シーンで活躍する作家のレクチャーというと、もう少し緊張感のある場を想像していたのですが、80名という規模感がちょうどよく、距離が近い分、互いに目礼を交わせる空気がありました。

内呂博之主任学芸員による導入

司会進行は、本展のキュレーションも手がけた内呂博之氏(ポーラ美術館主任学芸員)。簡単な作家紹介の後、内呂氏は来場者にこう告げました。

「私たちポーラ美術館側も、今日のトークを楽しみにしてきました。事前に名和さんに参考をお伝えしたところ、《PixCell》というシリーズに関しては、単独で話す機会はほとんどなかったということで、今日は特別に、《PixCell》のシリーズの源泉と、これからどの方向に向かわれるのか。そこについてもお話しいただけることになっています」

会場が小さくざわつき、皆さん少し前のめりになります。

「PixCellについて単独で話すのは初めて」

スクリーンに名和氏が映され、登壇。冒頭、名和氏自身がこう切り出しました。

「《PixCell》について話す、というテーマを言われて、そもそも《PixCell》について話すって、あんまりやってこなかったんですよ。だから、ちょっと考えようと思って、今週、一日で書いたテキストがあるんです。それを持ってきたので、あとで良かったらみなさんよろしくお願いいたします」

会場では実際に、名和氏が今回のトークのためだけに書き下ろした自筆ステートメント「作品について」が配布されました。A4で3ページほどの密度のあるテキスト。トークはこのテキストを傍らに置きながら、25年分の作品画像をスライドで送りつつ進められます。


「やっぱり、どういう時期にどういうことを考えていたか、ということを伝える良い機会だったので、《PixCell》が生まれる前の作品の画像を探して集んできたんです」

会場に少しずつ温度が上がっていく感じがありました。これから始まる90分が、ただの作家プレゼンではなく、作家自身の自伝的アーカイブの初公開だと、皆さんが理解した瞬間でした。

《PixCell-Deer》二頭に込めた展示意図

最初に名和氏が言及したのは、まさに先ほど私たちが鑑賞してきた、本展出品作の《PixCell-Deer》二頭についてでした。

「同じポーズで、お互いに向かい合っている、皮膚の色だけが違う二頭の鹿。これがお互いの存在を見返しているような構成にしたんですけど、この間に人が立つことによって、自身の存在を問われるというような、インスタレーションがしたかったんです」

会場のあちこちで、来場者の方が小さくうなずいていました。鑑賞時に感じた「見ているのか、見られているのか分からない」感覚は、ふんわりとした観賞者側の印象論ではなく、作家本人がはっきりと設計した「自身の存在を問われるインスタレーション」だった、ということになります。

二頭の皮膚の色の差は、自然界における擬態(カモフラージュ)の延長線上にあるそうです。植物の緑、砂漠の砂色、周囲の環境に応じて皮膚の色を変える昆虫や動物。「保護色というのは、環境に対して自身を擬態する動物の力。それを別の方向に振ってみると、まったく別の場所に生息する鹿、別の世界・別の惑星に存在しているような、パラレルな別世界の鹿が同居している」という構成だといいます。

つまりこの二頭は、同じ鹿でありながら、地球の二つの異なる生態系に生きる別個体のようでもあり、また地球そのものと「もうひとつの惑星」を行き来する想像力の装置でもある、ということでした。鑑賞しているときには気づかなかった奥行きが、本人の言葉で一気に開いていきます。

1975年生まれ:情報化と災害を生きた世代

最初に名和氏が語ったのは、自身の生まれと時代についてでした。

「僕は1975年大阪生まれで。ちょうど、Appleが今50周年なんですね。今年、50周年に行ってない、っていうか同じくらいなんですけど。だから、コンピューターの50年というのを、自分の人生に重ねてくる、というのがあって」

Appleの創業は1976年。名和氏とほぼ同世代の企業が、世界を情報化していった50年です。

「コンピューターだけの話ではなくて、本当にフィジカルなものとか、手を動かして作る、ということに、この50年関わってきたので、その話を少ししたいなと」

そしてもうひとつ、決定的な年として言及されたのが1995年でした。京都市立芸術大学に入学した翌年、Windows 95が発売され、社会は本格的にインターネット時代へと舵を切ります。同じ年、阪神・淡路大震災が起こりました。

「世界が情報化され根底からそのあり方を変化させていく感覚と、物理的現実の基盤を成す地面そのものが崩壊する災害の記憶が、同時に身体へ刻み込まれた」と、名和氏は配布資料に記しています。情報と災害を同時に経験した世代である、という自己認識。これが《PixCell》という作品を理解する最初の鍵になります。

思想書と美術全集に囲まれた幼少期

「子どもの頃に住んでいた家は、壁一面が本棚だったんです」

名和氏の家庭環境は、彫刻家のそれとしてはかなり特殊だったようです。父母ともに教師で、父は共産党系の活動にも関わり、母は古典文学を教える教師。家には哲学書や思想書がぎっしり並び、大きな美術全集もありました。

「6歳くらいまで、その美術全集をずっと眺めていた記憶があります。西洋美術と東洋美術が、はっきりと別の本に分かれていることに、『この距離感は何なんだろう』って、子ども心に感じていた」

意味を理解する以前に、像が身体に入り込んでくる経験。これは後の《PixCell》における「視覚と知覚」の問題に深いところでつながっていると感じました。

高校時代:植物、細胞、プログラミング

中学から高校にかけて、名和氏はカンディンスキー、イヴ・タンギー、パウル・クレー、ルノワール、マグリット、ダリといった近代美術の作家たちを熱心に模写していたそうです。特にダリのゾウを描いた絵がお気に入りで、そこからオブジェ作品も作っていたとのこと。

「これ、今ヨーロッパをツアーで回っている舞台作品の《Mirage》のデザインに、凄い似てるんですよね」

名和氏がスクリーンに映した高校時代のスケッチが、現在進行中の舞台美術と通じて見えるという指摘に、会場から小さなどよめきが起きました。少年時代の落書きが、30年後の世界ツアー作品の祖型として息づいている。創作の根は、案外驚くほど早い時期に張られているのかもしれません。

高校時代の名和氏は、ラグビー部、数学研究部、美術部の三つを掛け持ち。美術部では昼休みに油彩で「葉と花」を描き、植物のクロロフィルが太陽エネルギーを合成し、それが動物に共有される生態系の循環について、ゲーテやルドルフ・シュタイナーを読みながら考えていたそうです。

一方、数学研究部にはファミリーコンピュータにコードをつないでゲームを解析する独自のプログラマー生徒たちがいて、「面白い仲間が集まる場所だった」と笑顔で振り返っていました。

植物・細胞・色彩・生命と、コンピューター・コード・ピクセル・情報。この二重性は、名和氏のなかで最初から並走していたもの。《PixCell》が突如生まれたのではなく、長い助走があったことが、ここで実感できました。

アートキャンプ白州での6年間

京都市立芸術大学に入った最初の夏、名和氏は山梨で開催されていた田中泯氏主宰の「アートキャンプ白州」に参加します。

「美大の授業で習うこととは全く関係なくて、まったく違うラディカルな体験なんですよ。ダンス、音楽、彫刻、絵画、ノンジャンルで、あらゆる実験が行われていた。そこに、毎年夏に2ヶ月くらい泊まり込んで。体を使って何かをして、自分たちで育てた野菜を食べる。都市生活から完全に離れた場所で、自分たちの体にもう一度立ち返るような体験でした」

その後6年にわたり、ボランティアスタッフとして関わり続けたといいます。

「田中泯さんは、踊りを見せていないんですよね。見ている人の中で踊りが起こるように、体の最小単位を一つひとつ動かしている、というのを聞いて」

身体を外形ではなく、細胞の集合として感じる視点。これは《PixCell》における「セル」の感覚そのものだと、聞いていて鳥肌が立ちました。

田中泯氏の踊りを見たあと、名和氏は大学に戻り、彫塑の課題として楠(くす)の木で田中泯氏の背中を彫ったそうです。スクリーンには、若き日の名和氏が刻んだ、その背中の木彫作品が映し出されました。生身のダンサーの背中を、楠の木の塊に翻訳すること。立体としての肉体、踊る身体、そして木という素材の硬さと柔らかさ。学生時代の作品とはいえ、その後の名和氏の表現に通じる「身体と素材の対話」が、すでに濃密に立ち上がっていました。

白州ではもう一人、彫刻家・剣持和夫氏の存在も大きかったそうです。

「剣持さんの彫刻が、ものすごく格好良かったんです。それで、ちょうど実家の地面のあちこちで、木の電信柱がコンクリート柱に変わる時期だったんですよ。工事の人が抜いてる時に、それを下さいとお願いして。木の電信柱で、剣持さん風の塔みたいな制作を。これが大学の基礎課程でやっていた作品です。1年生の終わりくらい」

廃材としての木製電信柱を譲り受け、塔のような彫刻に組み上げる。素材、廃棄、垂直性、そして都市インフラの更新。後の名和作品のあらゆる要素が、すでにこの初期作にちりばめられているように思えました。

学生時代の実験:犬・トムのフォトグラメトリと、桂川の鉄(パブリックアート)

白州や剣持氏との出会いの時期、名和氏は学内でも面白い実験を重ねていました。

ひとつめのエピソードは、実家で飼っていた犬・トムをモチーフにした作品です。

「水粘土で、トムのフォルムを作って。樹脂で固めて、いろんな角度から写真を撮って、それを表面にぺたぺた貼り付けたんです。80年代くらいのカメラで撮って、ペーパーで止めて。今でいうフォトグラメトリみたいなことを、家でやっていた」

3Dスキャンや写真マッピングという技術用語がまだ一般的でなかった時代に、立体物にあらゆる角度の写真を貼り付けて「画像を立体化する」という発想を、家庭の片隅で実装していた。これは後の《PixCell》における「立体の表面に情報をまとわせる」という方法論の、ほとんど直接の祖型と言っていいと思います。スクリーンに映し出された当時のトム像は、素朴で愛らしいフォルムでありながら、25年後のシリーズへの導線が確かに見えるものでした。

ふたつめのエピソードは、桂川(かつらがわ)に勝手に設置した鉄の作品(パブリックアート)です。

「鉄を素材にして、桂川に持っていって設置したんですよ。2ヶ月くらいかけて工事して。これがけっこう大きな作品で。川の水面が上がると、作品の中に水が入っていって、下がると穴に水が溜まるようになる。川という環境の生態系が、そこに一時的に回収されるような構造を考えていたんです」

許可を取って設置したというより、学生がほぼ独自に河川に作品を持ち込んだエピソードに、会場から小さな笑いが起きました。しかし聞き進めると、この鉄の作品には、後の《Force》という重力や物質の流動を扱うシリーズに直接つながる思考が、すでにしっかり込められていることが分かります。固定された彫刻ではなく、川の水位の変化や生態系という「環境の動き」を取り込む装置。学生時代の名和氏は、すでに「現象としての彫刻」という方向に向かって踏み出していたのです。

犬の立体写真貼り付け、桂川の鉄、そして剣持風の電信柱の塔。素材も場所もまったく違うのに、いずれも「立体に情報や環境を翻訳する」という共通の思考が貫いている。本人による解説がなければ気づけない作品同士のつながりが、トーク中、何度も浮かび上がってきました。

京都市立芸大、野村仁との宇宙論的対話

帰国後の大学院での担当教員は、彫刻家・野村仁氏でした。

「野村さんは天体がもう、月とか太陽が宇宙論にもすごく興味があって。ブラックホールとか、そういうものを自由に、超ひも理論とか、多次元宇宙とか、こういう大宇宙の連続の彫刻のあり方を持って、《PixCell》という方向にもいただいたんですけど」

天体観測が好きだった名和氏は、野村氏と宇宙や認識論についてよく語り合ったそうです。観測可能な範囲だけが宇宙なのか。人間に完全には理解できない多次元の宇宙とは何か。

「ガラスのこういう枠が立ち上がるような、3次元と4次元ではない、もっと多次元の宇宙なんだろうな、と。だから人間というのは宇宙を完全に理解していなくて、これからも完全には理解できないんじゃないか」

《PixCell》の透明な球体は、近くで見れば細胞や粒子のようであり、離れて見ればひとつの像を結ぶ。ミクロとマクロのスケールが同時に作品の表面に折り重なっています。野村氏との宇宙論的対話が、この粒構造の理論的母体になっていることが、よく伝わってきました。

名和氏はまた、京都市芸大時代に同じく学んでいた中原浩大氏との対話や、先輩のヤノベケンジ氏らの制作現場を手伝う中で、作品制作だけでなく展示や現場運営に伴う実際の苦労も学んだそうです。

ロンドン留学:解剖実習とクローン羊ドリー

1997年、徳島でアントニー・ゴームリーの個展を見た衝撃が、ロンドン留学の引き金になります。翌1998年、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)へ約7ヶ月の交換留学。

ロンドンでは自然史博物館に通い詰め、ロンドン大学では人体解剖実習にも参加したそうです。

「人体をクロッキーで描くだけでなく、内臓を全部開いて手に持ってみるという。外側の形が開けて、中の形も見えることで、人間と豚の中身がほとんど同じだ、ということがわかった」

植物の根と内臓の形の類似、ヒトと動物の内部構造の連続性。生命の輪郭はどこから始まるのか、という問いがここで深まります。

同じころスコットランドではクローン羊ドリーが誕生し、「生命もまた情報であり、複製可能である」という感覚が社会に広がりつつありました。この時代の空気が、後に《PixCell-Sheep》という代表作の前提になっていきます。

留学期の卒業作品が《少年の膜》です。水粘土でつくった少年像の表面を、1ミリ程度の樹脂の膜で閉じ、水分が蒸発しないように閉じ込める。目の部分だけは膜を外し、そこから水分が抜けていく構造の彫刻。

「塑像史のなかで、水分を保ったままの塑像って、あんまりないんですよ」

そしてもうひとつの構成要素である中空の心臓は、当時飼っていた犬・トムの死がきっかけだったそうです。

「トムが亡くなったあと、急にすごく重く感じたのを覚えていて。その魂が宿っていたものが宿らなくなった状態で、抜け殻のように軽くなる、というのを感じて。空洞のままの心臓を作って、それを依代に見立てたんです」

中身が空洞のなかに存在を見ようとする日本的な彫刻の構造への気づき。寄木造の仏像が中身は空洞であるという事実への注目。《PixCell》の「表皮の彫刻」の発想は、すでにこのロンドン期に輪郭を持ち始めていました。

最初の《PixCell》はこたつの上のみかんだった

そして、トーク全体のクライマックスとも言える《PixCell》誕生のエピソードです。

「最初の《PixCell》は、巨大な構想から生まれたわけじゃないんですよ」

きっかけは、ガラスビーズを使った液体の彫刻《Liquid Spectrum》だったそうです。液体の雫が表面張力で立ち上がる感覚を、水の分子に見立ててガラスビーズに置き換える試みでした。

ある日、展示中の作品を眺めていた名和氏は、奇妙な現象に気づきます。

「透明なはずのビーズの中に、色が違って見える粒があったんです。よく見ると、透明な粒の奥に、何か入っていて、それが拡大されていたんですよ」

ガラスビーズの一粒一粒が、虫眼鏡のようなレンズとして働き、対象の表面を拡大して映している。表面の色を再現する、画面のような働き方。

「家に帰って、こたつの上にあったみかんに、それを貼り付けたんです」

これが、世界で最初の《PixCell》でした。

会場が一瞬しんとなり、その後、温かい笑いに包まれました。あの世界的なシリーズが、こたつのみかんから始まったという事実。なんとも詩的で、なんとも生活的なエピソードです。

さらに名和氏は、その「最初のみかん」の現在の写真をスクリーンに映しました。

「両親に『大事だからこのままにしておいて』って頼んでおいたら、カレンダーの裏紙に『重要作品』って書いて、20年以上保管してくれていたんです」

コロナ禍で実家に戻ったとき、祖母の家の二階の食器棚で、25年ほど経ったそのみかんと再会したそうです。表面のオレンジは黒っぽく変色しながら、それでも、最初の《PixCell》としてそこにあった。

「これが、まだ、ちょっとオレンジ色を残してて」

会場が温かい拍手に包まれました。名和氏の作品歴の中で、この瞬間がどれほど重要な意味を持っているかが、画面越しの色褪せたみかんから滲み出ていました。

キャベツ、羊の剥製、ネットオークション

みかんの次に試されたのは、スーパーで買ってきたキャベツでした。

「キャベツって、スーパーに置かれた時に、ちょっと脳みたいに見えますよね」

植物と動物、外部構造と内部構造、表皮と中身。ロンドンで人体解剖実習を経験していた名和氏ならではの視点が、ここでもにじみます。

その後、インターネットが普及し始めた時期に、名和氏はネットオークションでモチーフを探すようになります。トップページに偶然出てきた羊の剥製を落札し、それを《PixCell》にしたのが《PixCell-Sheep》。これがシリーズとして正式に名前を持つ、最初の作品となりました。

時代はちょうどクローン羊ドリーが話題となり、「生命は情報であり、複製できる」という感覚が社会に広がっていた頃。羊の剥製を透明なセルで覆うことは、単なる素材加工ではなく、かつて生命を持っていた身体を、情報化された表皮を持つ存在へと変換する行為でした。

「《PixCell》という言葉は、Pixel(画素)とCell(細胞)をかけてあって。情報の単位と、生命の単位を、ひとつの彫刻のなかで同居させたかったんです」

カメラ、レンズ、スクリーン、ピクセル。そして細胞、生命、表皮、皮膚。デジタルとフィジカルの双方を扱う名和氏の方法論が、ここで一気に明確になりました。

2011年震災以降:重力、漂流、瓶の中の手紙

トークの後半、もう一つの大きな転換点として語られたのが、2011年でした。

東京都現代美術館で大規模個展「名和晃平―シンセシス」が開催された同じ年に、東日本大震災と福島第一原発事故が起こります。1995年の阪神・淡路大震災に続く、二度目の大きな災害経験です。

「日本のテクノロジーやインフラが安定しているはずだ、という前提が、根底から崩れたんです。メルトダウンで、溶けていく高温物質が、地球の中心まで落ちていく、というイメージを想像したとき、すごく衝撃を受けた」

ここから《Direction》《Force》《Ether》《Foam》《Biota》といった、重力や物質の流動を扱うシリーズが生まれていきます。固定された形ではなく、変化し続ける現象そのものを彫刻にする方向。震災以降、名和氏の彫刻観は大きく拡張しました。

さらに2019年ごろから関心が向いていったのが「漂流物」というテーマです。

「街中で、テレビが放置されていて、半分植物に飲み込まれているのを見たんです。それを後ろから見ると、石みたいに見えた。それで思ったんです。今の日用品も、50年後、100年後にはすべて漂流物なんだ、って」

私たちが日常で使っているテレビ、椅子、ダクト、剥製、家具。いずれは時代に置いていかれ、未来の世代から見れば「過去から漂流してきた異物」になります。その視点で見ると、《PixCell》は単なる現在の作品ではなく、未来へ向けて投げ込まれたタイムカプセルのようにも見えてくる。

「《PixCell》は、いわばタイムカプセル、瓶詰めにされたメッセージのようなものだと思うんです。今の市場に向けて差し出すというよりも、宇宙と生命の長い歴史の中に出したいなという気持ちなんです」

会場の空気が、ふっと深く沈み込みました。世界で流通する高額な美術作品が、本人のなかでは「瓶の中の手紙」として位置づけられている。この詩的な比喩は、たぶんこのトークで一番美しい瞬間でした。

生成AI時代における「マテリアルのダンス」

トークの結びは、現代的な問いに着地します。

「いま、生成AIによって、イメージはどんどん抽象化、非物質化していますよね。確率的に生成されるものに変化している。あるいは、現実と仮想の境界線そのものが、あらゆる領域で攪乱され続けている」

だからこそ、と名和氏は配布資料に書いています。

「情報と表裏一体に存在する物質性、およびそれを受け取る私たちの感性のあり方を問い続けていかなければなりません。私は現代においてこそ、物質の重みや粘性、泡立ち、反射、崩壊、生成といった現象に目を凝らし、耳をそばだてる必要があると感じています」

そして名和氏は、自身の制作活動を「マテリアルのダンス」と呼びました。物質、身体、記憶、情報、重力、時間といった要素が互いに干渉しあう場をつくる。その相互作用を、人間の皮膚感覚へと翻訳する営み。

「人間は世界をどのように知覚しうるのか。その更新可能性は、このダンスの中にこそ潜んでいる、と信じています」

90分があっという間でした。

トーク後、もう一度《PixCell-Deer》の前へ

質疑応答も含めると約2時間。トークが終わってから、私はもう一度展示室のエピローグへ戻りました。

そして、二頭の《PixCell-Deer》の前に立ちました。

不思議なことに、見え方が、明らかに変わっていました。

透明な球体ひとつひとつが、もはやガラスビーズには見えません。それは、こたつの上のみかんに貼り付けられた最初の実験の延長線上にある粒であり、ロンドンの自然史博物館で見た標本の延長線上にある粒であり、クローン羊ドリーの記憶の延長線上にある粒であり、犬・トムの死で感じた身体の重さの延長線上にある粒であり、福島のメルトダウンで「物質が落ちていく」と想像したときの粒であり、生成AIで非物質化していくイメージへの「物質側からの応答」としての粒でした。

二頭の鹿が同じポーズで向かい合う構成も、トーク前とは全く違う意味で身体に染みてきます。鏡像のように見えながら、皮膚の色が異なる。同じ形を持ちながら、別の存在。自然でありながら情報化された存在。

そして、名和氏が冒頭で語った「皮膚の色が違う二頭の鹿の間に人が立つことで、自身の存在を問われるインスタレーションがしたかった」という意図が、ようやく腑に落ちました。私はいま、まさにその「問い」のなかに立っているのだと。

その間に立つ私もまた、データとして記録され、画像として流通し、情報の表皮をまとって生きている人間でした。

「世界を見るとは、何を見ていることなのか」

名和氏のトークの最後に滲んでいたこの問いが、《PixCell-Deer》の前で、静かに身体の奥で響いていました。

訪問の実用情報

最後に、これからポーラ美術館を訪れる方のために、実用的な情報をまとめておきます。

アクセスと駐車場

交通手段ルート
電車+バス箱根登山鉄道「強羅駅」より無料送迎バスで約13分(約30分間隔、1日13便)
東名高速道路「御殿場IC」から約20分、「箱根口IC」から約40分
駐車場約100台(無料)

私は車で訪問しましたが、御殿場IC経由は箱根の渋滞を避けやすく、5月の平日でもストレスなく到着できました。仙石原の標高は約700mあり、5月下旬でも肌寒い日があります。霧雨の日は特に冷えるので、薄手の上着を一枚持参するのがおすすめです。

入館料と所要時間の目安

区分料金(税込)
大人2,200円
大学生・高校生1,700円
中学生以下無料
シニア(65歳以上)1,900円

所要時間は、企画展だけなら約1時間半、コレクション展示も含めるなら2時間半〜3時間程度。森の遊歩道(無料、約1時間)も合わせて訪れるなら、半日〜1日かけてゆっくり楽しむのがおすすめです。館内にはレストランとカフェもあり、企画展鑑賞の合間にひと息つけます。

まとめ:箱根の森が抱いた「世界に届く鼓動」

霧雨の箱根、わずか80名だけが立ち会った名和晃平氏のアーティスト・トーク「『PixCell』と『自然』」は、世界的彫刻家が25年余りの制作の道のりを、初めて通史として語る貴重な時間でした。

こたつの上のみかんから始まり、ガラスビーズの偶然の発見、羊の剥製、クローン羊ドリーへの応答、震災と重力、漂流物、そして生成AI時代の「マテリアルのダンス」へ。《PixCell》という代表作の背後にあったのは、一人の彫刻家が情報と物質、生命と災害、自然と人工のあいだを行き来しながら、世界をどう知覚すべきかを問い続けた30年でした。

トーク後にもう一度立った《PixCell-Deer》の前で、透明な球体は、もはや美しい装飾ではなく、私たちのいる時代の知覚そのものを映し返す「表皮」として立ち上がっていました。

ポーラ美術館の「SPRING わきあがる鼓動」は、5月31日で会期を終えますが、《PixCell-Deer#74》は美術館の所蔵作品ですので、また別の機会に再会できるはずです。箱根の森に湧きあがる「鼓動」の中に、名和氏の鹿たちが、未来の世代へ向けた瓶の中の手紙として、静かに立ち続けている。そう思うと、もう一度この森を訪れたくなります。

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